「ダイアローグ・ギルティ」 そのE


第三章

 〈神谷瑞樹と吉村勇二郎(よしむら ゆうじろう)〉
 このゲームを知るまでは、死ぬ事なんて考えた事も無かった。自分が死ぬなんて、意識した事も無かった。
 あの人に会うまでは、毎日を惰性で生きていた。惰性で生きている事にすら気づく事無く生きていた。あの人と出会ってからは、毎日が矢のように早く過ぎた。今日は何が起こるのだろうとか、今日は何をしようかとか、子供みたいにはしゃいでいた。
 ずっとずっと、その日々が終わらないと思っていた。
 でもその日々があまりにも唐突に幕を閉じた時、私の中で何かが変わってしまった。冷たいコップに突然熱湯が注がれ、亀裂が入ったかのように、大切にしていた何かが亀裂から次々と流れだしていくのを感じた。
 あの日から、私の中でリアルに感じるものはあの人を殺してしまったという罪の意識だけになった。
「‥‥」
 男の名は吉村勇二郎と言った。
 勇二郎は私を見るといきなり口笛を吹いた。私はその態度に腹が立つ以前に、その全く物怖じしない態度に唖然とした。こんな人間は、初めてだった。
「噂通りの美人だな」
 そう言いながら、勇二郎は向かいのベッドに腰を降ろした。体付きからして、大体私と同じくらいの歳だろう。痩せ気味だが、体は全身筋肉と言った感じでしなやかだ。短く切られた髪の毛は、この薄暗さの中でもはっきり分かるほど青色に染められている。昨日の男とは違う意味で、どこにでもいそうな男だった。
 勇二郎は室内を見渡すような行動はとらなかった。ベッドに座る仕草もごく自然で、まるで以前にここに来た事があったかのような様子だった。それに彼の第一声も気になった。
「噂ってどういう事?」
 私が訊ねると、勇二郎は音も立てずに立ち上がり、私の眼前に立つと、私の右手の近くに置いてある煙草に手をのばした。
「有名だからね。連戦連勝の女神さんは」
「女神?」
「六戦全勝だっけ? 俺も三戦全勝って記録を持ってるけど、あんたには負けるね」
 勇二郎は私に向かって煙を吹きかけた。突然の事に、私はむせ返ってしまう。その様子を、勇二郎は楽しげに見下ろしていた。
 勇二郎は再び向かいのベッドに腰掛けると如何にも旨そうに煙草を吸う。私は喉を何度かさすり、咳をおさえる。
「あなた‥‥経験者なの?」
 そう訊ねると、勇二郎はにんまりと笑った。
「ご名答」
 煙草を口にくわえ、勇二郎は拍手をする。
「ゲームは毎晩行なわれる。何回か勝ち続ける奴が何人かいたって不思議じゃないだろ? あんただってそうじゃないか」
 ゲームが毎晩行なわれている事は知っている。その中に、私と同じように勝ち続ける者がいたとしてもおかしくはない。しかし、実際にその人物と会うのは初めてだった。
 私は事情を呑み込むと、一つ深呼吸をして、煙草を口にくわえた。
「私以外にも勝ち続けた奴がいるとは思っていたけど、本物に会うのは初めてだわ」
「俺も経験者と当たるのは今回が初めてだ。いやぁ、実に光栄だ。何故、そんなに勝ち続けられるのか、秘訣を知りたいねぇ」
 蔑んだ表情だった。それが気に食わなかった。
「秘訣なんて無いわよ。ただ偶然生き残れただけ」
「おいおいマジかよ。いくら運が良くったって限度ってものがあるぜ。六連勝なんて奇跡だよ、奇跡。偶然ですませるにゃあ、罪な連勝だよ」
「‥‥何が言いたいの?」
 鋭く尖った視線を勇二郎に向ける。しかし、勇二郎は全く動じず、その視線を見返す。
「このゲームは一つだけ、イカサマが出来る。もしかしたら、あんたはそれをやったんじゃないのかなっと思ってね」
「イカサマ? そんな事が出来るの?」
 私はイカサマなどした事が無い。第一、あのゲームの中で一体どんなイカサマが出来るのか分からない。
 勇二郎は眉を歪め、信じられないというような顔をする。
「あんたなら、絶対やった事はあると思ったのに、違うのかい?」
「だから、イカサマって何なの?」
 なかなかそのイカサマを言わない勇二郎に腹が立った。私が苛立つ事が前々から分かっていたのように、勇二郎はまあまあ、と言って宥める。
「金がある奴ならこのイカサマは簡単に出来る。つまり、借金覚悟で六発全部を相手に向けるのさ。まあ、相手も借金覚悟で同じような事をしてきたら、結果は分からなくなるが、このゲームに参加する奴の殆どが金が無い。出来たとして、ポイントがマイナスにならないぎりぎり、つまり二発しかこちらには向けられない。だから、確率としてはこっちの方が遥かに有利なのさ」
「‥‥」
 自慢げな口調で勇二郎は語る。だが、私は少し拍子抜けてしまった。そんなのはイカサマとは呼べない。イカサマはこちらが間違いなく勝てなければそうは呼べない。躍起になって聞こうとした自分が馬鹿みたいに思えた。
「ふうん。まあ、それもイカサマとは呼べなくもないわね。それよりもあなた、このゲームに参加する殆どの者が金が無いって言ったわよね? という事は僅かな人はそうじゃないって事?」
 私がそう聞くと、勇二郎はふふん、と意味ありげな含み笑いをして再び立ち上がり、私の横に座る。
「そうだよ。金が余って、尚且つ人を殺してみたい人が僅かにだがいるんだ。そういう奴と当たると厄介だな。こっちも借金覚悟で戦いを挑むしかない。まっ、それはそれで面白いんだかな」
 勇二郎は私の肩に腕を回す。その手の動き、私の体全体を舐めるような視線。嫌な気はしなかったが、今ここで彼に抱かれるのも癪に感じ、彼の鼻先に人差し指を押し当てた。
「もう少しで人が来るわよ。その後でもいいんじゃないの?」
 この人はきっと、その僅かな人の内の一人なのだろう。このゲームに参加する理由はただ一つ、快楽の為だ。今、私の体を求めようとするのも、その快楽の一端のつもりなのだろう。
 自分の意志を遮られて気分を害したようで、勇二郎は私から離れると煙草の煙と鼻と口から勢いよく吐き出した。
「あなた、どっかのおぼっちゃんでしょ?」
 私はこれ見よがしに下着が見えるような体勢で訊ねる。勇二郎はこちらをちらちらと見るが、流石に遊ばれている事に気付いているようで、わざと視線を遠くに向ける。
「親父は国会議員をやってる」
「つまり、お父さまの食い散らかした食べ物で生きてるってわけね」
 その言葉を聞いた勇二郎は鬼のような顔つきでこちらを睨んだ。
「‥‥二度と言うんじゃねえぞ」
「断るわ。残飯あさりさん」
「!」
 勇二郎は脱兎の如く私の傍に寄ると、私の髪の毛を容赦無く掴んだ。彼の恐ろしくもない顔が眼前に迫った。私はそれでも彼から視線を外さない。
「私ね、あなたみたいなタイプの人間が大嫌いなの。人のおこぼれでのうのうと生きて、そのくせ人の不幸を喜んだりするタイプの人間が」
「正義面するなよ。あんたはただ贅沢に暮らせないから俺を羨ましがってるだけなんだろう?」
「正義面なんかしてないわよ。本当にそう思ってるだけ。羨ましいなんてこれっぽっちも思ってないわ」
 この時、私は思った。こいつは相応しくない。私の最期を看取ってくれる奴がこんな人の気持ちも分からないゲス野郎なんて嫌だ。こいつは殺す。借金を背負ってでもいいから殺してやる。そう決めた。
 張り詰めた空気が流れる。お互い眼光を外さない。しかし、ここで殺し合いをしてはいけない。相手を傷つける事もしてはいけない。勇二郎もそれは分かってるはずだ。だから、手を出そうとはしない。
 向き合ってからどのくらいの時間が流れたのだろう。緊迫の薄い氷の膜を破ったのは、高瀬だった。高瀬はノックもせずに部屋に入ってきた。
「絶対に殺し合うなよ。傷つける事もダメだ」
 高瀬は場の空気に似合わない、落ち着いた口調でそう言う。
「分かってるよ」
 勇二郎は投げ捨てるように言うと、私の髪の毛から手を離し、自分のベッドに座った。私は髪の毛を整えながら、高瀬にいつもの笑顔を向けた。
「今日は何かしら?」
 高瀬はトレイに乗せた二人分の料理をそれぞれのベッドに置いた。いつもなら、トレイごとどちらかのベッドに乗せるだけだが、今日はそうしなかった。高瀬なりに気をきかせたのだろう。
 皿にのっていた料理は、ハンバーガーだった。しかし、そこらへんで売っているようなものではなく、ローストビーフやキャビアなどがパンからはみ出るくらいに詰まっている。飲み物はジンジャエールだ。
 料理を置いた高瀬は、私の方をじっと見ていめる。何か言いたそうな顔だった。
「何?」
「いや、何でもない」
「何よ? 言いたい事があるなら言っておいた方がいいわよ。明日はここにいないかもしれないし」
 そう言いながら私は、何故だか笑顔だった。死ぬかもしれない、と平然と語っている自分が何だか滑稽だった。でも、勇二郎に殺される気は毛頭無かった。
 高瀬は僅かに下がったサングラスを指で上げると、私を見た。その瞬間だけ、サングラス越しに高瀬の瞳が見えた。許しを乞うような、切なげな瞳だった。
「私も、嫌いなのか?」
「えっ?」
「私もよく、人の不幸を喜んだりしている。そんな私も、嫌いか?」
 あまりにも突拍子の無い質問だった。高瀬が自分の事を聞くなんて初めての事だった。昨日も一昨日も僅かだが言葉を交わした。その時は質問はしても、私に意見を求めるような事はしなかった。
「あなたは‥‥‥」
 何かを言おうとして、でも一体何が言いたかったのか分からず、言葉を曇らせてしまう。高瀬はただ待ってるのにが辛くなったのだろう、場を取り繕うかのようにポケットから煙草を取り出して火をつける。しかし、私はなかなか答えを言えなかった。
 別にあなたは嫌いじゃないと言いたいのか、あなたも嫌いと言いたいのか、自分でも分かっていなかった。
「何で‥‥喜ぶの?」
 ただ、そう訊ねる事しか出来なかった。
 高瀬は落ち着きを取り戻そうとするかのように、何度も煙草をふかす。彼の周りにだけ、濃い白煙が舞う。
「それで幸福に‥‥いや、生きていられる人がいるからだ」
「‥‥」
 どこか遠くを見るように瞳を泳がせ、誰とも視線を合わせたくない素振り。まるで初めて好きになった女の子に告白するかのような、ぎこちない手の動き。こんな高瀬の顔は初めて見た。そして、それはどこか、あの人の仕草に似ているような気がした。
「それでも、人の不幸を喜んではいけないのか?」
 高瀬は懇願するような、苦悶に満ちた顔を向ける。私は口を開けるのも忘れて、高瀬の顔を見入ってしまう。
 その人は誰なのだろうか、と思う。こんなにも生きてほしいと願われている人とはどんな人なのだろう。高瀬の最愛の人だろうか。もしそうだとしたら、喜んではいけないとは言えなかった。
「その人って、どんな人なの?」
 そう聞くと、高瀬は白煙と一緒にため息を吐いて、肩を少し落とした。期待していた何かを諦めたような、そんな風に見えた。
「‥‥いや、もういい。変な事を聞いて悪かった」
「ちょっと待ってよ。どんな人なのよ、その人は」
「‥‥」
 高瀬は質問に答えず、煙草を部屋の隅に投げ捨てた。煙草の行方を追うと、途中で完全に蚊帳の外にいる勇二郎の姿が刹那映った。勇二郎は政治の話をしている大人の姿を黙って見つめる子供のような顔をしていた。
 結局、高瀬は何も答えないまま部屋から出ていってしまった。
「‥‥」
 ベッドに戻り、食事を始める。殆ど味がしなかった。高瀬の心配している人がどんな人なのか考えてしまい、味にまで気が回らなかった。ふともう一つのベッドを見ると、勇二郎がハンバーガーを勢いよく齧り付いていた。
 食事が終わり、私と勇二郎は殆ど同じ瞬間に煙草に火をつけた。もう、こちらにやってくる気配は無い。煙草をくゆらす彼の姿には、さっき見た刺されるような雰囲気は無かった。
「なあ、あんたと高瀬はどんな関係なんだ?」
 合コンで隣り合った男女のような、軽い口調で勇二郎は訊ねてくる。
「大した関係じゃないわよ」
「そうなのか‥‥。とてもそうは思えないけどな」
「六回彼と顔を合わせてるのよ。少しくらい話をしたっていいじゃない」
「いや‥‥そういう意味じゃないんだけど。まあ、いいか」
 一人で勝手に納得し、勇二郎は紫煙を吐き出す。私はその態度が気になり、少し身を乗り出す。
「何よ。高瀬の次はあんた? 一人で勝手に納得しないでよ。どうせ、後十分もしたらゲームが始まるのよ。教えなさいよ」
 荒い口調でそう聞くと、勇二郎は呆れ顔苦々しく微笑む。
「知らない方がいいって事もあるぜ。特に、このゲームに出る場合はな」
「どういう意味?」
「‥‥あんた、本当に六回もこのゲームに出てんのか? そうだとしたら、あんたは馬鹿だな。どうしようもないくらいのな」
 ひどく卑下された気分だったが、私は素直に怒れなかった。本当に分からなかった。高瀬の言いたかった事も、そして勇二郎の言った事も。
「そんな事、早く忘れた方がいいぜ。これからどっちかは確実に死ぬんだ。思ったって無駄かもしれないしな」
 勇二郎はそれだけ言うとベッドに横になってしまった。私は一人とり残され、どうしていいのか分からなかった。
 頭が混乱してくる。私は煙草に火をつけ、勢いよく煙を吐き出した。
「‥‥ああっ! もう」
 ベッドに横になる。何を考えてもまとまらない。勇二郎がそんな私を面白そうに見ていた。私は腹が立った。
「何よ?」
「あんた、何でこのゲームに出てるんだ? 金か? 快楽か?」
「懺悔よ」
「懺悔?」
「そうよ。私はね、このゲームで大切な人を無くしてしまった。それは全部私のせい。だからこのゲームで死んであの人の所に行くの」
「‥‥分からないな」
「いいのよ。自分だけが分かればいいの」
「‥‥そうか。そういう事か」
 勇二郎は思い立ったようにポンと手を叩く。
「何? 何なわけ?」
 苛立ちを隠せない。今の会話で一体何が分かったのだろうか。
 勇二郎はベッドから起き上がり、含み笑いをしてみせる。
「あんたは美人だ。性格もここに来てるわりには冷静だ。でもな、一つだけよろしくない事がある。それが分かった時、あんたはもっと綺麗になる」
「何でそうもったいぶるような言い方するわけ? あんたが死んだら聞けないし、私は知らずに死にたくないわ」
「このゲームの名前、覚えてるか? ダイアローグ・ギルティ。言葉を交わす罪だ。きっと今その答えを言ったら、あんたは後悔する。だから俺は言わない。言わず、ただあんたは俺を殺したい。そう願っていてくれていた方がいい」
「‥‥」
「これは助言なんだぜ。経験者としてのな」
 勇二郎は笑うと、またベッドに横になった。
 私の何がよろしくないというのか? それが分かれば、私は後悔する? 私の頭はますます混乱するばかりだった。だが勇二郎はもう何も喋ろうとしない。私に背を向けたままだ。
 彼の前で死ぬ気は毛頭無い。彼は私の死に際を見るにはあまりにも相応しくない。その気持ちに変わりは無い。だが、私の心はそれ一色では決して埋まらなかった。


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